延寿鍛冶とは
熊本県菊池市西寺の延寿太郎屋敷跡
延寿鍛冶とは
延寿鍛冶は、大和千手院弘村の子で、山城の来国行の外孫と伝える太郎国村を祖として、鎌倉時代末葉から南北朝期にかけて同国菊池郡隈府の地に大いに繁栄した。国村は初め、大和より京都に出て来国行に学び、のちその女聟となっていたのを、代々皇室に忠勤をはげんで、京都との文化交流にも熱心であった、肥後菊池氏(菊池氏・第十代・菊池武房公)の要請に応じて来住したので国村を事実上の祖とする。(諸説あり)
延寿鍛冶を京都(山城)から菊池に招いた
菊池氏・第十代・菊池武房公
その門葉には国吉・国時・国泰・国友・国資・国信・国綱等多くの上手が輩出している。勤王鍛冶として菊池一族とその盛衰を共にし、その後衰えたとはいえ、応永、永亨、文明、天文と戦国時代まで名脈を伝えている。
一般的に鎌倉時代の作品を古延寿、南北朝のものを中延寿、応永以降の作を末延寿と呼ぶが、不明確な点や、鎌倉時代の作品は殆ど見られないことから、ここでは鎌倉時代から南北朝末期迄の作品を古延寿と称する。
特別重要刀剣 短刀 銘 国時(延寿)
熊本県指定有形文化財 指定第一号(工芸)
公益財団法人 日本美術刀剣保存協会 指定
国村を建治頃(一二七五年)とし、国泰、国時などを建武頃(一三三四年)と記し、その間約五十年程の空間が生じているが、現実に国資、国時などに建武年紀の作品が現存していることから、この間に今一人の国村か国泰や国時を入れる必要がある。延寿鍛冶の作品は現存するものも多く、名作も伝来している。
古延寿の特徴として、太刀は山城伝(来系)風の踏張のある、先身幅の細った上品でおっとりした姿格好。一見して、来国俊や来国光の優しい方の作柄に似ている。
参考資料:公益財団法人 日本美術刀剣保存協会 重要刀剣・特別重要刀剣
指定図譜
常石英明 日本刀の研究と鑑定(古刀編)
右京・左京の墓 平成三年二月 菊池市教育委員会
重要刀剣 太刀 銘 国吉(延寿)
公益財団法人 日本美術刀剣保存協会 指定
刃文は沸本位の、焼幅の狭い直刃で、来物のように、直刃に小乱が交ると云った調子ではなく、直刃一本鎗で僅かに沸足が入るか、ほつれる程度。帽子は小丸風に浅く返るか、大和伝の掃掛け風になり、時に喰違刃が現れる。地肌はよく錬れた小板目鍛えで、べったりした梨子肌だが、地鉄はいわゆる九州地鉄を使用しているため弱く、処々に板目肌が流れ、黒味を帯びた小さい異鉄が現れている。また、この弱い肌の刃寄りに少し柾目肌が現れる。
重要刀剣 短刀 銘 来国俊
徳川将軍家伝来
公益財団法人 日本美術刀剣保存協会 指定
鞘書より元文二年五月二十八日に水戸徳川藩主
徳川宗翰(むねもと)より将軍家治へ御七夜の祝儀として献上された
ことがわかり、伝来にふさわしい優品である。
一派の作風は、概ね山城の来派に類似するが、鍛えに柾ごころが目立ち白け映りが立ち、刃文は匂口が幾分沈みごころで、刃中の働きが穏やかとなり、また帽子の先の丸味がやや大きく、しかも返りの浅い点などに相違がみられ、同派の見どころとして挙げられる。末延寿は応永頃より古刀末期までの延寿系の末流の作品を指し、国房、国永、国賀、国光、国定、国盛、国冬などの作品である。また、菊池氏衰退後、古刀末期の永禄、天文頃には加藤清正に従い、同田貫一派となったものもあり、延寿刀の文化を受け継いでいった。
特別保存刀剣 刀 銘
八月吉日 小山左馬助
肥州木下住 藤原国勝作(同田貫)
菊池が同田貫・発祥地であることを証明した刀
(詳しくは会場でご覧ください)
日本刀撮影:井上啓・ディレクション:太田光柾
禁無断転載・複写
参考資料:公益財団法人 日本美術刀剣保存協会 重要刀剣・特別重要刀剣
指定図譜
常石英明 日本刀の研究と鑑定(古刀編)
右京・左京の墓 平成三年二月 菊池市教育委員会